がらくたおきば Ver.3.1

映画/お笑い/特撮/EUROBEAT・メタル・80's・90's/アイドル/ロボゲ・音ゲ・レース・レトロ/パチ・スロ/ウイスキーでgdgd/世界史で飯を食えたらかっこいい/物事の本質はくだらないものの中にこそあると信じてるタイプ

5/5(火)

超トップ英語講師がtwitter上で喧嘩をしていた。もうすこぶる外野の僕からすれば,「ほうほうまた始まったのか何かな何かな」ぐらいのテンションだったけれども,結局収まっていく過程を見ると「なんだかんだどっちもどっちで見えてないところがあるのかなぁ」という気持ちになった。

 

「教師・講師」っていう仕事は必ず見えないポジションの生徒が出てくる。これは,置かれた場所・働く場所によって必ず発生する問題だと思う。僕でいうと,トップレベルの生徒の想定は本当にできない。「こうすればいいのかな?」は浮かぶけど,それが正解だという確たる自信は持ち合わせていない。

 

今回の喧嘩もそんなところのずれなんじゃないかなと思う。映像授業の人はもともと全方位ミサイル系の振る舞いでおなじみだが,間違いなくチャレンジ層の英語力をあげることには貢献しているし,大手の人はトップを伸ばすことに定評がある人なのは間違いない。そこに齟齬があるんだよ,と僕は言いたい。

 

自分がそうだったからと言って,全員が全員そうだと言い切るつもりは毛頭ないが,上位層ばっかり教えている人はどうしても目線が上位層基準ばっかりになりがちだし,下位層ばっかり教えている人は,どうしても目線が下位層基準になりがちだと思う。下位層基準の教え方を極めていくと,莫大な情報をいかに単純化していくか,というテクニックに陥りがちだと感じる。上位層ばかり教えている人からすると,その教え方はとてもくだらなく見えるし,「本質」を教えていく上での邪道に見えるわけだ。

 

僕は,どちらにも共感できるし,どちらにも共感できない。自分が受験生であれば,単純化テクニックがすごく上手な人にあこがれていた覚えがあるけれど,自分が教授する側になった今,「それもそれでどうなの?」っていう気持ちがぬぐえない。しかし,何にもわからない子たちに「本質」と称して素直に教えたいことを教えても,のれんに腕押しなのも確かだ。

 

どちらにも云々とか言いながら,どうしても目線は下位層目線になる。それは仕方ない。僕は「単純化テクニック」に陥らないように「本質」を教えていけるような指導者にならないといけないなと感じながら,今日も粛々と動画を撮り続けていた。